
きっかけは『フリースタイルダンジョン』の前説
芸人として活躍されているカシューナッツさんですが、今日はDJとしてお話を伺おうと思います。なんとお呼びすれば良いですか?笑
いや、何と呼んでいただいてもいいんですけど、DJとしては『TIMESLIP B-BOY GO』としてやらせてもらっているので、GOでもGOちゃんでもなんでも。本名が剛なので、GOちゃんだと、お母さんに呼ばれている気持ちになりますけど、本当になんでも。
ではGOさんで(笑)。多くの人は、お笑いコンビ『ゆんぼだんぷ』の活動、特に「おなかをくっつけ合って音を出しているあのネタ」を思い浮かべると思うのですが、そもそもなぜDJ活動をすることになったのか? そこからお聞きできれば。
いろんなことがつながっているのですが、やっぱりきっかけは芸人としてのお仕事でした。10年くらい前に『フリースタイルダンジョン』(※テレビ朝日系で2015年9月より放映されたMCバトル番組)が始まったときに、いろんなご縁から「前説」をやらせてもらったんです。
ご存じのように『フリースタイルダンジョン』は、ラップバトルやHIP-HOPが多くの人の目に触れるきっかけになるくらいの人気番組になりました。そこに関わらせていただいていたご縁もあってご縁もあって、ABEMAのインターネット番組でDJに挑戦するお仕事をもらえたんです。
『私立FRESH!学園DJ部』というその番組は、DJ BAKUさん、DJ SHOTAさんが先生になって、初心者がDJを学ぶという企画。参加していたのはタレントさんやモデルさんなどいろいろな職業の人がいましたが、お笑い芸人は僕らだけ。半年間レギュラーとして出演させてもらいました。
このとき初めてDJ機材に触り、スポンサーさんから提供された機材で自宅でもひたすら練習してという時間を過ごしたのですが、この番組のすごかったのは、開始から半年後の“卒業式”を渋谷のHARLEMのBX CAFEでお客さんを入れてプレイしたところ。あれは緊張しましたね。
では、番組が開始された2016年からDJをするようになった?
番組の企画で始めて、そこから趣味になっていった感じですね。BAKUさんやSHOTAさんに教わったことを一生懸命練習して、もともと自分が好きで聞いていたHIP-HOPを中心にプレイするようになって、レコードを集め始めて。たまに動画配信はしていましたが、そのときは「タイムスリップ」というコンセプトもなかったですし、『TIMESLIP B-BOY GO』とは名乗っていませんでした。DJはあくまでも趣味という位置づけでした。
コロナ禍の“芸人としての危機”がDJ活動に
コンセプトを決めて、本格的にDJとしてもやっていくことになったのは?
これはもう完全にコロナ禍がきっかけですね。お笑いコンビ『ゆんぼだんぷ』として活動している中で、『細かすぎて伝わらないモノマネ(フジテレビ系、博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜)』で注目してもらったり、2017年に『アメリカズ・ゴット・タレント(※NBCネットワーク制作の番組で同様のフォーマットの番組が世界各国で制作。放映されている)』のアジア版で準決勝に進出したり、翌年は本家のアメリカ版で準々決勝に進出したりして、ありがたいことにお仕事いただけるようになっていたんです。それが、2020年になってコロナ禍に入ると、本当にパッタリと、仕事がまったくなくなったんです。
僕らだけじゃないですけど、あの頃はテレビ収録や劇場でお笑いをやること自体が難しくて、本当に仕事がなかったんです。
どの職業も大変な時期でしたよね。
クラブやライブハウスとかもそうだと思うんですけど、劇場も密集空間に人が集まるからそもそもお笑いライブができませんでした。テレビ収録も緊急事態宣言が出たころは全くなかったですし、徐々に収録できるようになっても制限がたくさんありました。
特に僕たちのネタは、上半身裸になって、おなかをくっつけて音を出すわけですから、ほぼすべてのネタがまさに‟濃厚接触”なんですよね。収録や劇場が再開してからも、ディレクターから「おなかとおなかの間にアクリル板を挟んでやってください」ってマジで言われたんですよ! いやいやそれ音出ませんよって(笑)。もうネタの意味が全然変わってきますから。
たしかに。
収入もストップして、二人でもうどうしようってなっていました。一応コンビでネタ動画をYouTubeにアップしたりはしていたんですけど、これもまた僕らのネタってすぐ運営から削除されてしまうんですよね。
AIが判断するらしいんですけど、僕らのネタはなんか肌色が多い……。それが不適切な動画と判断されて、削除されてしまうんです。
肌色でBANされてしまう……
ちょうどASMRが流行っていたので、霧吹きで水を吹きかけたお互いの腹を打ち付け合う「まるで鏡のような水面に雨の雫が一滴落ちる音」というネタを100回やる動画を上げたんですけど、すぐに不適切な動画ってなって「これコンビのネタはYouTubeは向いていないな」となったんです。
そんなこともあって、趣味だったDJも仕事にできるんじゃないか、とにかくやれることをやってみようという気持ちになって『TIMESLIP B-BOY GO』が誕生しました。
古着屋でふと浮かんだインスピレーション
「20年前から現代にタイムスリップしてしまったB-BOY」という設定はどこから来たんですか? 始めた当初から固まっていた?
実はきっかけはファッションからだったんですよ。コロナ禍に下北沢の古着屋に行ったんですけど、そのお店の中で自分が中学生、高校生だった頃に流行っていた服を見て、懐かしさがウワーッと込み上げてきたんですね。自分でもなぜその時そんな感情になったのかよくわからないんですけど、懐かしいだけじゃなくて何か感じるものがあって。
最近、Y2Kファッションとか、2000年代のオーバーサイズファッションとかのリバイバルブームもあったじゃないですか。それもあって、まずは青春時代に着ていたブランドの服を紹介する動画を配信してみたんです。見てくれる人が思いのほかいて、「20年前から現代にタイムスリップしてしまったB-BOY」というコンセプトがいいんじゃないかと。
タイムスリップってお笑いでも割と古典的なコントとかでもウケるベタなネタではあるんですよね。「戦国時代から来ました」みたいな設定で会話を進めていく扱いやすいネタというか。そういう意味では『TIMESLIP B-BOY GO』の設定を考えたのはお笑いの脳みそかもしれないですね。
設定ができて、そこからその時代の曲の短いリミックスとかをInstagramやTikTokのリール動画で流し始めるようになったのがDJ活動の始まりです。
DJ BAKU、DJ SHOTA、2人の師匠とHARLEMでの卒業式
スポンサー提供のDJ機材もあったし、技術も学んでいた。そこに30代、40代の人には懐かしい、Z世代にもリバイバルで注目されている90年代後半から2000年代のカルチャー、HIP-HOPがつながっていったと。配信は自宅からやっていたんですか?
DJ動画の配信は自宅からですね。機材はあったし、一応DJの基礎は学んでいたのですが、『TIMESLIP B-BOY GO』を名乗るに当たっては、『私立FRESH!学園DJ部』でお世話になったDJ SHOTAさんが水曜の講師をやっているスクール、『OTAIRECORD MUSIC SCHOOL』に通って、さらにスキルを磨くことにしました。そのときはどうせ仕事もないし、思い切ってDJをしっかりやってみようという思いはありましたね。同時期に、もう一人の師匠、DJ BAKUさんの紹介で渋谷のRUBY ROOMで月に一回、90年代、2000年代のHIP-HOP、R&Bオンリーのイベントをやらせてもらえることになったんです。RUBY ROOMのイベントは今も継続的にやらせてもらっていますが、本当に2人の師匠のお陰でDJとしての道が開けました。
最初はDJプレイを配信されていたということですが、初めて人前で回したのはいつですか?
それこそ、『私立FRESH!学園DJ部』の卒業式ですよね。番組の企画とはいえ、ちゃんとしたパーティーでお客さんも入っている中でやりました。しかも、二階フロアのBX CAFEとはいえあのHARLEMですからね。10人くらいいる生徒たちが順番に1曲ずつ曲をつないでいくだけで、たぶん5分くらいだったと思うんですけど、めちゃくちゃ緊張して全然うまくできなかった悔しさをよく覚えています。
家でやったらできるんですけど、タイミングが合わなくて、マイクでワーッてごまかすしかなくて。人前でやるのは全然違うんだな、できないもんなんだなというのは勉強になりました。
卒業式以降、『TIMESLIP B-BOY GO』になってからでは、RUBY ROOMのイベントが箱で回した最初ですかね?
そうですね。それもやっぱり失敗の連続で、DJ経験者の人ならわかってくれると思うんですけど、ローを戻し忘れたりとか、クロスフェーダーの左右がわからなくなって「どっち?どっち?」ってなったりとか、本当に1曲につき一つのミスがあるくらいだったんですよ。紹介してくれたBAKUさんもよくキレないで見守ってくれたと思うくらい(笑)。
その時にサイドMCをやってくださった方がいて、それがすごく助けになって、パーティーをつくるってこういうことなんだなと思いました。
アナログレコードを介して“音に触れる”ことへのこだわり
DJの技術については初めから誰かに習う形で始められたと思うんですけど、技術の習得は難しかったですか?
難しかったですね。いや難しいですね。自分はアナログレコードでやっているので、2枚使いのテクニックとかスクラッチとかができるようになるのも大変でしたけど、それとは別に現場で回すための技術をつかむのが難しかったです。
針が飛ぶとかの予期せぬトラブルを含めて、家では100回やっても起きないミスが現場では起きるんです。もちろんプロなら針を飛ばさないなんてのは大前提なんですけど、たとえ飛んでも音を止めずにリカバリーできる方法や技術をBAKUさんとSHOTAさんに教わりましたね。そういうプロの技術はこれからもがんばって習得していかないといけないなと思っています。
DJとしては90年代、2000年代のHIP-HOP、R&Bに特化してやるというコンセプトがはっきりしていると思うのですが、バイナルでプレイすることにもこだわりはありますか?
最初に習ったのがアナログレコードの機材だったということもありますけど、タイムスリップする前の時代にはデジタルの機材はありませんからね(笑)。
DJ松永さんが言っていたんですけど、DJがレコードに触るということは音に触っているということだみたいな言い方をされていて、本当にそうだと思うんですよね。モノによっては何十年も前につくられたレコードに針を落として、触って音を動かす。アナログでやるのがやっぱり好きですね。
今はDJのほとんどがデジタルでやっていると思いますし、その利点もよくわかります。それこそアナログは、針が飛ぶとか、レコードの現物を持っていないとかいろいろ不便はありますけど、アナログレコードを使ってプレイするのが楽しいんです。あとは自分が中高生のときに聴いてた曲のレコードがめちゃくちゃ安く手に入ったというのもバイナルでやってみようと思った理由のひとつかもしれません。
当時の名曲が1枚100円とか200円で売られていて、知らない曲でも聞いてみたらめちゃくちゃカッコいいっていう出会いもあったりして、レコードを集めること自体にハマりました。レコードを買いに行くのも趣味というか楽しいんですよね。
たしかに、以前のDJはレコード屋で音源をディグる、それも含めてDJというイメージはありましたよね。
ダウンロードしたりサブスクでっていうのも便利だと思うのですが、レコードが好きで、レコードを探したり買いに行くのも好きで、その不便さも含めて好きなのかもしれないです。
音源になるレコードはどういうところで探すんですか?
もちろんディスクユニオンにも行きますし、HMV record shopとか、大きいところも行くんですけど、それこそお笑いで地方に営業に行ったときに僕だけ一泊してご当地のレコ屋めぐりはしますね。
東京にも個人店はありますけど、地方の個人店は店主の好みがより強く出ている気がします。ラインナップの偏りとかで、「このジャンルこの年代がめちゃくちゃ好きなんだろうなぁ」「この人、このテイストが好きなんだろうなぁ」とか、同じレコードが5枚あったりするんですよね。
地方の中古のレコ屋だと、20年前にDJをやってた人が、アナログからデジタルに移ったときに売っただろうレコードとかもあって、スリーブに手書きでBPMとか、イントロからラップが始まるまで8小節とか4小節とかカウントが書いてあったりして、そういう前に持っていた人の痕跡もデジタルにはない良さで僕は好きですね。
岡山で触れたHIP-HOPの衝撃とお笑いか相撲かの進路
『TIMESLIP B-BOY GO』はまさにご自身が中高生時代に触れた音楽やファッション、カルチャーが元になっていると思うんですけど、当時はどんな音楽を聴いていたんですか?
僕が中1、中2くらいの時、ちょうど音楽やファッションに興味を持ち始めた頃に、いわゆる“日本語ラップ”が普通にヒットチャートに入るようになったんですね。そこでHIP-HOPに興味を持ったんですけど、岡山の田舎の中学生にはなかなか情報が入ってこないんですよ。
クラブなんかもちろんないし、ネットも今ほど発達してなくてYouTubeもまだなかったですよね。HIP-HOPについて知りたいと思っても、MTVを見るくらいしかありませんでした。だから2000年代初頭にMTVで流れていた曲ですよね。一番衝撃を受けたのはやっぱり、そのとき繰り返し流れていたエミネムの『The Real Slim Shady』(※エミネム3枚目のアルバム『The Marshall Mathers LP』から先行シングルカットされた曲。2000年リリース)かなぁ。エミネムを入り口にファッション、激しい音楽がかっこいいなぁってめちゃくちゃハマっていきました。
その頃はお笑いも好きだったんですか? そこからお笑い芸人になるまでの経緯は?
お笑いも好きでしたね。この体型というのもあって、相撲をやっていたんですよ。中学校では全国大会にも出たりして。で、高校生になって進路を考えるときに、相撲取りになるか、当時好きだったお笑い芸人を目指すかとなったときに、相撲は正直自分でも無理だと思っていたんです。中学の時の全国大会で、今と変わらないくらいの体型だったんですけど、自分よりデカい人ばっかりでそこですでにこれは無理だなと思っていました。
お笑い芸人を目指すというのも、モテたいとか不純な動機でしたね。イケメンじゃない男がチヤホヤされるためには面白くて、人気者になるしか道はないと思っていて、お笑いを始めたみたいな。
今回はお笑い芸人としての話はメインではないんですけど、 相撲かお笑いかでお笑いを選んで、そのあとは、HIP-HOPやラップとはどんな距離感だったんですか?
聞いていた時期もありますけど、中高生のとき、2000年代の初めとそれより前の曲がやっぱり好きですね。
DABOが岡山に来る! 高1の冬の興奮と落胆、そしてリベンジ
お笑い芸人になって、最初は受け身だったとしてもDJをやるとなって、ちょっと真剣にやってみようとなったのは、中学、高校の時の気持ちが再燃した感じなんですか?
そうですね。やっぱり原体験としてあるのは、あの頃の気持ちですね。今でもよく覚えているのが、地元にNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのDABOさんが来るってなったんですよ。デビューアルバムをリリースした頃だったのかな? 「あのDABOが来る!」ってめっちゃ盛り上がって、でもさっきも言いましたけど、岡山の田舎にはクラブもライブハウスもないんですよ。じゃあどこでやるかっていうと、閉店したコンビニの建物でやるっていうんです。田舎によくある広い駐車場がある長方形のコンビニを想像してもらったらいいんですけど、いつの間にか閉店して「テナント募集」って貼り紙がしてある元コンビニの建物を会場にしてライブをやるっていうんです。
地元では相当話題になって、僕も冬にチャリを1時間くらい漕いで行ったんです。いろんな意味で緩い時代だったので、とりあえず会場には入れたんですけど、タイムテーブルも何もわからなくて、DABOさんがいつ出るのかもわからず。元コンビニですから、ガラス張りで音漏れも何もドゥンドゥンって音は外にそのまま聞こえてますし、空調もなしで、会場に集まった人の体温と熱気で真冬なのに建物の中はサウナ状態。ガラスは結露しているし、大げさじゃなくて室内は湿気で霧のようなモヤがかかってよく見えないくらいでした。
2時間くらい最前列にいたんですけど、DABOさんはもちろんまだまだ出ないし、何か気持ち悪くなってきて。汗臭いし、クラッと来て倒れそうになって、「これはいったん休憩しないとマズい」とそとに出たんです。自販機を探して水分補給をして、30分くらい休憩してから再入場しようとしたら「もう満員だから入れないよ」って言われて……。中を覗こうにもガラスは曇って見えないし、憧れのDABOさんはすぐそこにいるはずなのに姿を見ることもできず、結局、入場料をちゃんと払ったのに、盛大な音漏れを聞いて帰るというつらい思い出がありまして。(笑)
聞くところによると、DJを始めたことでそのDABOさんと再会? できたそうで。
そうなんですよ。東京でお会いする機会があって、DABOさんもお笑い好きなんで僕らのことも知ってくださっていて、その後、DJをしに行った現場でも何度かお会いして、うれしかったですね。2年くらい前には自分がRUBY ROOMでやっているイベントに思い切ってオファーさせてもらったんです。
15、6歳の頃に見ることができなかったDABOさんと数十年を経てお会いできるだけじゃなくて、一緒のステージに立たせてもらうわけですからね。中3のときにライブを見に行ったラッパ我リヤのQさん(Mr.Q)とかも実際お話もさせてもらったりして。あの頃の自分に「がんばってればいいことあるぞ」って伝えたいですよね。やっぱりなんやろ、もうすぐ40歳になるんですけど、そういう人たちにお会いすると15歳に戻りますね。目の前にいたら、なんかもう「見てました!」って、喋れなくなってただのヘッズに戻ってます。
(Interview and text by Kazuki Otsuka,Special thanks to COUNTER CLUB)
後編に続く→
TIMESLIP B-BOY GO
1986年生まれ。「20年前から現代にタイムスリップしてしまったB-BOY GO」 として活動。お笑いコンビ「ゆんぼだんぷ」のカシューナッツとして『博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜』『エンタの神様』などに出演。アメリカを中心に世界中で展開しているオーディション番組『Got Talent』シリーズでは、アジア、アメリカに出演し、体格を生かした“音芸”が大きな話題を呼んだ。
DJとしては、バイナルでのプレイにこだわり、90年代後半から2000年代初頭のファッションやカルチャー、HIP-HOP、R&Bに特化した発信で、世代ど真ん中の30代、40代だけでなく、“クラシック”と若者の橋渡し役としても人気を博している。DABO、Mr.Q(ラッパ我リヤ)、漢a.k.a. GAMI、FORK(ICE BAHN)ら2000年代から活躍する自身のアイドルとの共演も多数果たしていて、全国各地で年間50ステージ以上のDJプレイをこなしている。