
所有DJブースは国内外に18カ所! 「台数だけは日本一?」
今回の取材をお受けするに当たって、私がいくつのDJブースを持っているか数えたんですよ。もちろんこのオフィスにもありますし、関東のオフィス、仙台、大阪、北九州、宮崎、あとはハノイ、ホーチミン、バンコクにもあって、3隻の船と飛行機にもブースが設置してあって、全部で18ありました。「腕はともかく、台数だけは日本一」、そんな書き出しでどうですか?(笑)
高校中退から最初に就いた職はDJ見習いだった
ありがとうございます。熊谷さんが音楽に造詣が深く、DJプレイも本格的にやられているというのは知る人ぞ知る情報だと思うのですが、熊谷さんと音楽、DJが結びつかない読者も多いと思います。まずは「そもそもなぜDJを?」の出会い、動機の部分を聞かせてください。
私は現在62歳なのですが、17歳の時に高校を中退しています。中退して最初にやったのが、新宿の歌舞伎町にあった『Beach & Breeze』、略して『B&B』というディスコ……当時は「サーファーディスコ」と言われていましたが、その『B&B』での見習いDJでした。最初はただの常連でしたが、夜な夜な通っているうちに店の人とも仲良くなって、DJをするようになったんです。当時はまだスリップマットなどもなく、レコードを包んでいるパラフィン紙を敷いてレコードを滑らせているような時代。文字どおり「アナログ」な手法でミックスやキューイングをして、今で言う「ダンスクラシック」の曲をかけてました。だから今から45年前くらい前にDJをしていたことになります。
1980年代の新宿・歌舞伎町は10代を中心にした若者がディスコに集う文化があったと聞きました。『B&B』も入っていた『東亜会館』は、当時各階に有名ディスコが入っていた“聖地”のようなところだったとか。
そうですそうです。『東亜会館』の一番上にあったんですよね。バンプっていう独自のダンスで有名だった『BIBA』とかにもよく行きましたし、懐かしいなぁ。
その『B&B』で私にDJの手ほどきをしてくれたのが、DJトーマスさん。残念ながら若くしてお亡くなりになってしまったのですが、お店が終わってから基本的な技術を教わったり、彼の家に行っていろんな曲を教えてもらったりしました。
そのあとにDJを教えてくれたのは、TACOさんでした。TACOさんは、『ZOO』のリーダーだった方です。みなさんご存知かもしれませんが、『EXILE』のリーダーで、LDHを創業したHIROさんも『ZOO』のメンバーです。『ZOO』は、今では当たり前になったダンス&ボーカルユニットの先駆けのような存在です。
TACOさんは現在は現代舞踊研究家としても活動されていますよね。
TACOさんは、『B&B』で私がDJ見習いをしていたときに目の前で踊っていた人で、そのときにダンスを教わったりして仲良くなりました。あの頃、彼の“カスタムバイク”の後ろに乗せてもらってアパートに行って、そこで一緒にミックステープをつくったんですよ。探せば出てくるんじゃないかと思うんですけど、あの頃の時間も含めて宝物ですよね。
当時は新宿、歌舞伎町にディスコカルチャーの中心地があったんですよね。それこそDJ KOOさんも『B&B』でDJをされていたと聞きました。
そうなんですね。DJ KOOさんとは時代が被っていないのかな? ちょっとその時のことは存じ上げませんが、『B&B』はすごく有名なサーファーディスコで、当時一番イケてたディスコだったんです。
「実家はディスコ」の真相と実はパラパラの火付け役だった?
そんなイケてた『B&B』が私のDJとの出会いの場所であり、DJをするきっかけなのです。一つ面白い話があって、ある日私が父親に「新宿のディスコでバイトしてる」と言ったんですね。「すごくお客さんが入っていて、商売としていいと思うよ」と。
私の父は神楽坂で映画館、パチンコ店、喫茶店、パブ、貸しビルなどのサービス業のお店を複数経営していたんですね。息子のそんな話を聞いた父がある日突然、「正寿、俺はディスコやることにした」と言うんです。
「古代から人は、いいことがあっても、悪いことがあっても、焚き火を囲んで踊っていただろ。だから踊りはなくならねえんだよ」
そんなことを言ったのをよく覚えています。「なるほど、踊りはなくならないのか」と。
そこで公式プロフィールにもある神楽坂の伝説のディスコ『TWINSTAR(ツインスター※1992年に開業し“パラパラの聖地”として一世を風靡した。2003年に閉店)』につながるわけですね。
私はいつも「実家がディスコです」って言っているんですが、それは本当の話で、私の話から父がディスコに関心を持って、『TWINSTAR』がスタートすることになったんです。
『TWINSTAR』はパラパラの発祥の地、火付け役として知られています。当時の流行を覚えている人もいるでしょう? 国民的アイドルが番組でパラパラを踊り、全国で流行りました。実はこのときパラパラを監修したのが「パラパラと言えば」ということで白羽の矢が立った『TWINSTAR』の支配人だったと聞いています。
渋谷でギャルが踊り、ディズニーランドでミッキーマウスがパラパラを踊ったのは、私がDJをやっていたからともいえるんです! これは本当のことですからね(笑)。
いつか話そうと思っていたのですが、AlphaThetaさんのインタビューでDJとして取材を受けて、このお話ができるのは最高じゃないですか?(笑)
GMO公認部活動「DJ部」とコミュニケーション
意外なルーツと、家業とのつながり。素敵なお話です。そこから現在のDJ活動につながるまでのお話は?
その後は仕事が忙しくなってDJからはずいぶん離れていましたが、やっぱり音楽は相変わらず大好きだったんです。タワーレコードさんのキャッチコピーじゃありませんが「NO MUSIC, NO LIFE.」で、音楽は絶えずコミュニケーションのツールとして身近にありました。
DJブースを各所に設置してDJプレイをするようになったのは、20年くらい前からかな? 各オフィスにDJブースがあるというのも、GMOインターネットグループで働く約8000人のパートナーが、みんなで集まってコミュニケーションを深めるためなんです。
GMOインターネットグループには『DJ部』という公認部活動があって、私は初代会長? 最高顧問なのかな?
2014年に「音楽を通じた社内のコミュニケーション活性化と仲間の笑顔づくり」を目的に創部され、毎週金曜のBARタイムやグループのイベントなどでDJブースを出すなどの活動をされているそうですね。DJブースが社内のコミュニケーション、一体感の醸成に一役買っていると。
もちろんです。だってみんな音楽、大好きじゃないですか。DJプレイをするのは、もちろんストレス発散の意味もありますけど、やっぱり私にとってはコミュニケーションツールかな。
だって音楽を聴いて嫌だって言う人はめったにいないし、好きな音楽がかかったらテンションが変わるじゃないですか。食事を一緒にしたり、お酒を酌み交わしてコミュニケーションを深めることもあれば、音楽でコミュニケーションを深めることもある。ビジネスを一緒にやっていく相手とのコミュニケーションツールとして私がDJをすることも日常茶飯事ですし、クラブを貸し切ってDJをやったことも幾度となくあります。パートナーが集まるイベントで回したり、ときには営業中のクラブに突然乱入してDJをしたこともあります。私にとってDJは音楽をコミュニケーションツールとして活用するための手段の一つになっているんです。
(Interview and text by Kazuki Otsuka)
後編に続く→
熊谷正寿/DJ KUMARK
1963年生まれ。GMOインターネットグループ代表。1991年の創業以来、インターネットの黎明期から日本のネットインフラを支えてきた先駆者であり、IT時代を代表する起業家でもある。東証プライム上場企業を率いる一方、「DJ KUMARK」として社内外のイベントでプレイするDJとしての顔を持つ。10代で新宿の伝説的ディスコ「B&B(Beach & Breeze)」のDJ見習いになり、以降も絶えず音楽との関わりを持ってきた。オフィス、プライベートジェット、クルーザーなど国内外に計18箇所のDJブースを所有。社内コミュニケーションや企業のアンチエイジングとして音楽を推奨し、大型ダンスミュージックフェス「GMO SONIC」の主催者としても知られる。