
髷をつけた力士がDJ?
大相撲とDJ。ずいぶんかけ離れた世界のように感じます。親方がDJを始められたのは、いつ、どんなきっかけだったんですか。
人前で初めてプレイしたのは、2001年ですかね。ちょうど現役を引退した年で、まだ髷をつけたまま、ブースに立ちました(笑)。きっかけは……私、現役の頃から、音楽関係の方たちとの繋がりが結構あったんですよ。そういうお付き合いのなかで、「DJやってみたら?」とお誘いを受けることが増えていって、その後に偶然が重なって、あれよあれよという間に人前でプレイすることになっていきました。
DJを始めた経緯はのちほどじっくり伺うとして、相撲界について知らない読者もたくさんいると思います。相撲協会でのお仕事、親方の役割など、現在のお仕事について教えてください。
たしかにそうですよね。協会では審判部に所属しています。大相撲の本場所を見ていると、土俵の周りに黒い着物を着た親方が座っているのを見たことがある人もいるでしょう。土俵周りに5人の親方がいるのですが、私もあそこに座って力士の勝敗を見る「勝負審判」というのをやっています。微妙な一番があったら「物言い」をつけて、「今の行司の判定はおかしいんじゃないか」と。ついてる、ついてないを土俵の上で検討して、ビデオも見ながら判断する。そういう役ですね。
引退後、部屋を持って親方として後進を育てるというイメージが強いですが、相撲協会で仕事をする元力士も多い?
そうですね。協会員として仕事が割り振られるんですよ。引退したばかりの親方は、たいてい場内警備をやります。それからある程度経つと、地方場所の担当や、場内全体を見る「監察」をやる。私の場合は審判と、あとは番付編成といって、要するに「力士のランキング」みたいなものを決める仕事もやっています。
部屋では部屋付きの親方として若手の指導をしています。基本は稽古で、あとはやっぱり生活ですよ。「ちょっとだらしないな、掃除しろ」とか、もう、うるさいことばっかり言ってます。学校の先生みたいなもんですよ(笑)。
「力士がブギー・バック歌ってるぞ」
ここから時計の針を現役時代まで巻き戻して伺います。冒頭で「音楽関係の方たちとの繋がりが結構あった」とおっしゃいました。力士としては、かなり珍しいことだと思います。そもそも、その人脈はどこから始まったんですか。
いろんなことに興味があって、いろんなところに首を突っ込む性分なんですよ。「相撲だけ」という人間じゃなかった。最初のきっかけは、ワハハ本舗の梅垣義明さんの舞台を観に行ったことなんです。私、梅垣さんが好きでね。あの鼻に豆を入れてピュッと飛ばすヤツ(笑)。そこでいとうせいこうさんの事務所のスタッフさんと隣同士になって、「一緒に飲みに行こう」とナンパされたんです。で、行ってみたら、その場に、いとうせいこうさん、編集者の川勝正幸さん、渡辺祐さんそういう方がずらっといたんですよ。
1990年代、音楽、出版、サブカルチャーの中心にいた人たちですね。
そのときにみんなでワーッと飲んで、カラオケに行くことになったんです。相撲取りだから、まず演歌かなと思って演歌を歌ったら、若干シラッとしてる(笑)。そこで、『今夜はブギー・バック』を歌ったんですよ。もともとスチャダラパーが好きで当時良く聴いていたので、ウケ狙いということもなかったんですけど、「力士がブギー・バック歌ってるぞ」と逆にザワついて……。
それを面白がってもらったのか、スチャダラパーや小山田圭吾くんとか、スカパラ(東京スカパラダイスオーケストラ)なんかを紹介してもらって、どんどん音楽系の人脈が広がっていきました。
なかでも、スチャダラパーとは、いまも深い付き合いだそうですね。
今でも良く飲んだりするのはスカパラの川上さんや大森さんですね。スチャはANIと先日も飲みましたし、個展も行きました。
昭和も力士と有名人との交遊録はよく聞きましたが、お相撲さんの夜といえば銀座、というイメージです。当時の親方はそっちじゃなかった?
普通はそうじゃないですか。でも、私は一時期、下北沢ばかり通っていましたね。
梅垣さんのつながりで「下北で飲もう」となって、連れて行ってもらった店が、また音楽関係者ばかりの店だったんです。そこで最初に会った有名人が、当時「YAH YAH YAH」と歌っていたChageさんだったんですよ。
そこは、CHAGE&ASKAのお二人や、中島みゆきさん、吉田拓郎さんのプロデュースでも知られる瀬尾一三さんなんかが常連の、フォーク絡みの人たちの巣窟みたいなところで。そこで『LOVE LOVE あいしてる』や『HEY! HEY! HEY! MUSIC CHAMP』をやっていたフジテレビの菊池プロデューサーとか、いろんな人と知り合いましたね。
私にとっては、銀座で飲んで、女性がいるクラブに行くよりも、音楽を聴きにライブに行ったり、音が鳴っている方のクラブに行ったり、変な人たちと飲んだりする方が楽しかったんです。
全盛期の貴乃花に2度の勝利
夜は下北沢で音楽人と飲み、昼は土俵で闘う。その土俵の上での話も聞かせてください。当時は貴乃花関の全盛期。その絶対王者から、2場所連続で白星を挙げています。
あれはうれしかったですね。いまだによく覚えています。
貴乃花さんという人は、相手の得意な形で受けて立って、そのうえでねじ伏せる人だったんです。相手が突っ張ってくるんだったら突っ張らせる。右で組みたい相手には右で組ませる。左なら左で組ませる。相手の得意技に正面から合わせて、それでも勝つ。すべてにおいて100点満点を目指していた方でしたね。
で、私の得意は左四つなんです。これは自分のなかでは200点満点くらいの気持ちがあった。「それなら貴乃花さんは、絶対に組んでくれる」と読んだんです。実際、組ませてくれた。「組んだらもう、こっちのもんだ」と思って行ったら、勝てたんですよ。
横綱が、あえて受けて立ってくれた。
受けて立つというのがないと、そこに戦いは生まれないんです。3度目に当たったときは、さすがに組ませてくれなかった。立ち合いから張ってきましたから。だから、相撲に勝って勝負に負けた、という感じですかね。でも、「この男には右を取らせない」と意識してもらえた。それは、認めてもらえたということでもあるんです。それが、すごく嬉しかった。横綱には、横綱なりの美学がありますからね。
「チャチいのは良くない」秋葉原で買ったCDJ
音楽関係者と近かったことは分かりましたが、直接的にご自身がDJをするようになったのは、何がきっかけだったんですか?
これも飲みの席なんですけど、パラダイス山元(マンボミュージシャン、サンタクロース協会公認サンタクロース、餃子職人など多方面で活躍する異色の才人)さんに「DJ機能のついたミニコンポがあるんですよ。買ってみようかな」なんて話をしたんです。そうしたら山元さんが、「いや、最初からそんなチャチいのは良くない。ちゃんとしたものを買いましょう」と言うんです。その足で、秋葉原に一緒に行って、CDJを2台とスピーカーの1セットを揃えました。
迷っていたミニコンポから、いきなりCDJ2台。
最初から、ちゃんとした機材で始めることになったんです(笑)。で、DJ機材をいじってるらしいというのを聞きつけた、大阪の読売テレビで編成局長をしていた人が、「それならDJをやってみたらええ」と言うわけですよ。
自分でも「やろうかな、でもな」と思っているうちに、力士としての人生に影響を与える別の問題が起きたんです。
突然の引退宣告と、「いいタイミングやないか」
2000年の九州場所で咳が止まらなくなったんです。最初は合宿所のあった鹿児島の診療所で「肺炎です」と言われましたが、東京に戻って、病院で心電図を撮ったら「ちょっとやばい」と。
それでも納得できずにいたんですけど、この時期にちょうど協会の健康診断があった。ドクターが2、3人集まってきて、「このまま続けたら本当に突然死の恐れがあります」とはっきり言われたんです。
こっちは現役でバリバリやっているのに、いきなりですからね。突然、現役を辞めざるを得なくなって「はあ?」という感じじゃないですか。原因はと言えば、太りすぎなんですけどね(笑)。
志半ばの引退。喪失感は大きかったのでは。
でかかったですよ。相撲を見るのも悔しいくらい。「もっとやりたかったな」という思いが、ずっと残ったままで、「どうしようかな」と、ボケっとしていたんです。そうしたら、DJをやってみたらと言ってくれた読売テレビの編成局長が「いや、いいタイミングやないか。ちょっと大阪でDJやってみようや」と言ってくれたんです。
それで大阪・アメリカ村の『グランカフェ』というところで、人前で初のDJプレイをすることになりました。引退を覚悟した直後で、断髪式もまだですから、髷をつけたまま。もちろん最初からうまくできるわけではないですよ。どこで切って、どうつないでいくのかもよくわからないまま、とにかく曲をかけるのに手一杯でした。
引退を覚悟したのDJブースは、親方にとってどんな場所だったのでしょうか。
プレイしている時間だけは、そこに集中できたんです。相撲への悔しさや、「もっとやりたかった」という思いを、その時間だけは脇に置くことができた。あのきっかけがなかったら、自暴自棄になっていたかもしれないですね。
「おもろいな」が同じ人たちと
DJを始めたことで、音楽を通じた出会いも、さらに広がっていったんですね。
そうですね。最初にDJを誘ってくれた読売テレビの方は、「それ、おもろいな」というのが口癖でね。その「おもろいな」の中身が、私の「おもろいな」と、ぴったり同じだったんですよ。
何をおもしろがるかが近かった。
そうなんです。さっきも話しましたが、銀座より下北、音楽の方が私にはおもしろかった。だから結局、自分の「おもしろい」に賛同してくれる人たち、波長が合う人たちと付き合ってきたんだと思います。
その波長の合う人たちとの出会いが、活動にもつながっていく。
酒場詩人の吉田類さんと知り合って、須永辰緒さん、スカパラの川上つよしさん、私、類さんの4人で飲みに行ったんです。四谷に太平山酒蔵という店があって、そこで飲んでいたら、類さんがああいう顔ぶれと知り合うのが珍しかったらしくて、「この4人で『太平ボーイズ』を作ろう」という話になったんです。
相撲、酒場、音楽がつないだ縁。普通なら、なかなか一緒にならない顔ぶれです。
そうですよね。でも、そういう人たちが一緒に飲むと、話がどんどん転がっていくんです。その後に東日本大震災があったでしょう。私たちは何もできないけれど、被災した酒蔵に何かできないか、と。類さんを中心にイベントをやって、集まった寄付金を酒蔵に届ける、ということをやりました。
出会った人たちとの縁が、支援活動にもつながっていった。
そうですね。いろんな出会いが、そうやって、いろんな活動につながっていくんですよ。
相撲だけをやっていたら、出会わなかった人たちがたくさんいる。音楽があって、酒場があって、DJがあって、そこからまた別の活動につながっていく。そういうことが、自分の中では自然に起きていった感じですね。
ただDJをやっているだけではなくて、自分なりに相撲の外側にいる人たちとつながることもできた。そこは、やってきてよかったなと思います。
(Interview and text by Kazuki Otsuka)
後編に続く→
浦風親方/DJ Sikisima
1970年生まれ、千葉県船橋市出身。「敷島」として、幕内通算28場所を務め、最高位は西前頭筆頭。1998年3月場所で横綱・貴乃花を寄り切りで破り初金星、翌5月場所も小手投げで下し、2場所連続の金星を挙げた。2001年、心機能障害のため現役を引退。現在は年寄・浦風として日本相撲協会の審判委員を務め、荒汐部屋の部屋付き親方として後進を指導する。引退の年に「DJ Sikisima」としてDJデビュー。クラブジャズを軸にしたCDJでのプレイを持ち味とし、現在もブースに立つ。ジャズユニットTres-menのアルバムへのゲスト参加や、音楽誌『MUSICA』でのディスクレビュー執筆など、活動はプレイの外にも広がる。所有CDは4〜5000枚超。