

きっかけはアクシデントからーーDTMとの出会いとDJ

DJ活動を始められたきっかけはどういうところからだったんですか?
実はGENERATIONS from EXILE TRIBEのデビュー前なんですよね。ショッピングモールを回ってパフォーマンスしてる時代に、ワンハーフ(※1コーラス+サビまたはその一部の長さ)でパフォーマンスする予定が、フルコーラスの音源しか用意されていなかったことがあったんです。もう本番まで数時間というところで、僕がたまたまノートパソコンを持っていて、もうここで編集してしまおうって。それが初めてのDTMだったんですけど、なんとか編集ができて、パフォーマンスも無事に成功。そのときに、「こういうのも楽しいかも」と、まずDTMをやるようになりました。
自分で曲をつくっていくうちに「人に聞いてもらいたい」と思うようになって、それならDJをやってみるのが近道じゃないかと思ったのが最初のきっかけです。
自作の曲を聞いてもらう手段としてのDJ。
今ならInstagramとか、SNSで公開して聞いてもらうとか手段はいろいろあると思うのですが、当時はそのやり方もそこまで主流ではなく、「曲の出しどころ」で思いついたのがDJだったんですよね。あとは、僕自身がダンスミュージックやクラブミュージックがすごく好きで、そもそもダンスに触れたのもHIP-HOPだったりして、DJの存在が身近にあったというのも大きかったと思います。
DJを始めるに当たって、最初にしたことは?
LDHの社長であるHIROさんに言うことですね(笑)。「やりたい」と思ったときはまだグループも駆け出しで、個人活動として「DJをやりたいです」なんて言い出せる状況じゃないと思っていたんです。
でも、せっかく始めるならただの趣味で終わらせるのではなく、せっかくならちゃんと実力をつけて、人前でできるようになりたいと思っていたんです。
HIROさんの「やってみたら」で届いたDJ機材
HIROさんに伝えた話は過去のインタビューでも語られていたと思うのですが、どんなシチュエーションだったんですか?
いつ言おうかなと迷っていたんですけど、あるとき会社に行ったらたまたまHIROさんもいらっしゃってて、そのときに「もう今だ」と思って。
「HIROさん、僕DJに興味があって、やってみたいと思っているんですけど」ってシンプルに思いを伝えて、同時にグループ活動にも生かせるように仕事としてもやってみたいことも話したんです。
HIROさんはすぐに「いいじゃん。やってみなよ」って言ってくれて、その場で「DARUMA(PKCZ®のDJ DARUMA)に必要な機材リストアップしてもらってそれ買って届けるから」って言ってくださったんです。
もう一つ覚えているのが、「やってみなよ」と一緒に「合わなかったら無理して続けなくてもいいよ」という言葉をくれたことです。それはすごく印象に残っていますね。
HIROさんは大先輩であると同時に、事務所の社長という立場ですよね。当時は気軽に話しかけられる存在だったんですか?
社長というのはありましたけど、全然話しかけられる関係性でしたね。今でこそEXILE TRIBEは後輩も増えて大所帯ですけど、当時はまだそれほど人数も多くなくて、食事もよく一緒に行っていましたし、すぐに相談できる距離感ではありました。
DJをやってみたいことを言い出しづらかったのは、言うタイミングを間違えたらグループの活動が始まったばかりなのに自分勝手なことをしようとしているとか、そんなふうに捉えられてしまわないかという懸念があったせいでした。実際はまったくそんなことなく、笑顔で「やってみたらいいじゃん」と返されて拍子抜けでした。
名前を隠してオープン直後のクラブで回す武者修行
無事にHIROさん公認で始められて、機材も手に入った。そこからは?
もう毎日めっちゃ家でやってましたね。GENERATIONSはデビューして1年か2年くらいの時だったんですけど、ダンスの練習を終えて家に帰ったらDJの練習をずっとやるという生活でした。
それこそ最初はCDJ-2000NXSを毎日触っていて、DARUMAさんが挙げてくれたリストの機材の他に、僕が上京してからずっとお世話になっている“東京のお父さん”的なスタッフの方に、ターンテーブルを買ってもらって、アナログレコードでも回せるように練習を繰り返していました。
それもGENERATIONSの活動に役立てればという思いで?
もともとグループの曲を編集するために始めたDTMがきっかけだったこともあって、例えば自分たちの楽曲制作に関われたらいいなとか、ライブでDJパフォーマンスができたらいいなとは思っていましたね。
当時は人前で披露する機会はあったんですか?
GENERATIONSという、言ってみれば「オーバーグラウンド」で活動しているからこそ、本職のDJ、プロとして活動されている方たちに「片手間でやっている」とは思われたくないという思いもあったんです。現場で回しているDJをリスペクトしていましたし。なので、DARUMAさんやJOMMYさん(DJ DARUMAの盟友。2021年にはPKCZ®に加入している)にお願いして、渋谷のWOMBやVISIONで、名前を隠してプレイさせてもらったりしていました。
誰も白濱亜嵐が回しているとは知らずに。
はい、知らずに(笑)。完全シークレットで、告知もしていないなか開店直後の立ち上げの1時間回させてもらったりしていました。まだお客さんもほとんどいなくて、照明もまだ落とし気味のクラブで、別にゲストDJとかでもないんで注目されることもなく、暗がりの中でただ「どう言う流れをつくれば盛り上がるか」とか「お客さんが入り始めたらどんな感じにしていくか」とかを考えながら選曲するのが、いま思えばすごく良い経験になって現在の活動に生きていると思います。
クラブで名前を隠して回すことは事務所には言っていたんですか?
話していましたね。特に反対されたりとかもなかったですし、なんなら「ちゃんと戦ってこい」「クラブで認められてこい」くらいの感じでした。
失敗から学んだ現場感覚とLDHの会食でのDJ披露

クラブでの武者修行時代のことで印象に残っていることは?
とにかくめちゃくちゃ失敗していましたね。スクラッチタイミングがズレるとか、フェーダーを切るのを忘れてたりとか、音を止めちゃったこともありましたし、本当にありとあらゆる失敗をしました。
DJを始めた当初は、90年代以前のディスコミュージックをかけることが多かったんですが、その頃の曲ってBPMがデジタル的に一定な今のクラブミュージックと違って、ピッチが不揃いだったりするんですよ。カウントで歌ったり録ったりしているので、ミックスするときに音がぶつかってガチャガチャになったりすることもあって。一時間後にはもう汗だくですよね。「うわぁやべぇ」って、毎回踊った後くらいに汗びっしょりになっていました。
これはクラブではないんですけど、みなさんのイメージにもあるかもしれませんが、LDHって結構会食が多いんですよ。LDH内だったり、お仕事で関わる企業の方とだったり、外国のミュージシャンが来日したときだったり、食事をする機会が結構あるんです。そういうときに盛り上がってくると「亜嵐、DJやって」と言われることが今でもあるんです。
その場に合った、そこにいる人たちに受ける曲をかけるというのが本当に難しかったですね。音楽業界の先輩、プロのミュージシャンだったりダンサーだったり、それこそDJだったり。年齢も僕からしたら上の人が多いし、始めたての頃の自分には本当に難しかったです。
その人たちの青春時代に流行った曲とか、自分がリアルタイムでは触れていない楽曲をちゃんと集めるようになって。僕のパソコンにはそのための「接待フォルダ」があって、そのフォルダの中にさらに細かく「立ち上げ」、「盛り上げ」、「バンガー」とかに分けて準備していました。
マルチな活躍に求められる「ナチュラルさと切り替え」

パフォーマーとしてステージに立って、歌も歌って、俳優として演技もして、そこにさらにDJもとなると、まったく別の職業を掛け持ちしている感覚なのかなと思うんですが、それぞれの仕事できっちり切り替えをして臨んでいるのでしょうか? それとも同じものとして捉えているのでしょうか?
演技のお仕事は15歳くらいからやってるので、ナチュラルにできているんですよね。スイッチを切り替えて「よし、今日は俳優だ」みたいな感じはありません。俳優とパフォーマーに関しては気負うことなく、自然に切り替わっていると思います。
DJに関してはまた別で、まだまだ若手というか、DJの世界では自分は何者でもないという感覚があるので、結構意図的に切り替えて前向きにガツガツやっている感じですね。
月9で青春ドラマを演じたあとすぐ夜はクラブへ

例えば、 日中は俳優のお仕事して、夜はDJをやるみたいな日もある?
全然ありますよ。それこそ一昨年は、月9に出ていたんですよ(※2023年夏ドラマ『真夏のシンデレラ』に出演)海岸沿いで、青春ラブストーリーを撮影した後に、「この後、ZEROTOKYOなんで」ってZEROTOKYOでDJをするなんてこともありましたよ。
そういう取り組みだったり、切り替えだったりはALANさんの中では自然なことだと思うのですが、周囲、 例えばファンの人にとってはイメージの違い、ギャップに対して戸惑いみたいなものはなかったんですかね? もちろん今となってはみなさん理解してくれていると思いますが。
最初はあったと思いますよ。めっちゃあったと思います。なんて言うんでしょうね。やっぱりクラブカルチャーに対してのイメージも人によって違うじゃないですか。そういう世界に飛び込んだわけですから、多少なりともざわめきはありました。僕のいた世界にも、クラブ業界にも、どっちもザワついたと思います。
クラブ、DJの世界からは、「中途半端にやるなよ?」みたいなプレッシャーとかもあったり?
自分も中途半端な気持ちで始めたわけじゃなかったし、そう見られないために名前を隠してプレイさせてもらったりしていたんですけど、優しい人ばっかりで、嫌な思いをした覚えがまったくないですね。そもそも僕自身、20歳になったその日にDARUMAさんにクラブに連れて行ってもらって、一晩で6軒はしごして、そこからプライベートでクラブに出入りするようになったのも大きかったと思います。箱による違いとか、行ってみないとわからないことってたくさんあるので、大人の社会科見学じゃないですけど、自分の世界を広げてくれた先に、いろいろな人とつながって、そこから自然な形でDJを始められたというのもあると思います。
これまでの肩書きが通用しない世界で戦う覚悟

DJ活動でいうと、2023年にオランダのレーベルと契約したり、12カ月連続リリースしたりとか、DJとしての活動が加速している感じがありますよね。
本気でやらないと認められない世界というか、前からわかっていたことですけど、LDHとか、GENERATIONSとかこれまでの肩書きが一切通用しない世界なんですよね。そこは本当に本気でやらないといけないなって改めて思ったのと、2024年の上半期に、GENERATIONSとしても個人がそれぞれやりたいことに時間を使おうという期間があって、その時に何ができるかなと思った時に、やっぱ僕がやりたいなと思ってたのはDJだった本格的に形にしていくべきだと思ったのはあります。
他のメンバーも含めて、ソロプロジェクトを立ち上げられるのは、グループがそれだけ形になったという証でもあると思うので、GENERATIONSもグループとして一つ山場を乗り越えて、新しいフェーズに入れたのかと思ったのも大きなきっかけの一つです。
もう一つ、すごく思うのがクラブシーンでゲストDJとして出るってことは、他のDJの席を一人分奪っていることになるわけで、どんな形でも自分にチャンスが与えられた以上、一つひとつの出番を大切にしないといけない。その出番を意味のあるものにしたいという思いがより強くなったということもあります。
SNSで変化しつつある曲のディグり方

シーンに対するリスペクトがあればこそですね。ところで、昔から音楽自体やクラブカルチャーの近いところにいたとは言え、DJの技術や、元々はあまり馴染みのなかったジャンルの曲をディグったりするのはどんなふうにやってきたんですか?
技術については最初は先輩に教えてもらってですよね。曲については、最近はもう基本的にはベースミュージックしかプレイしないっていうスタイルになってるんですけど、初期の頃はオールジャンル、オールミックスでやっていたので、レコードプールとかでとにかく流れを知ったりとか得意なジャンルの先輩に聞いて教えてもらうとかしてなるべく新しい曲をチェックするようにしていました。
今は、ダンスミュージックのシーンの真ん中にいるのですごくいろんな情報をくれる友達とかも増えましたし、DJ同士で情報交換も役立っています。あと大きいのはSNSの普及ですね。もうアーティスト、曲の情報、トレンド、何でも入ってきますね。最近は新しい曲やアーティストを知るのはほとんどSNSです。世界中の情報がタイムラグなく当事者発信でダイレクトに受け取れるわけなので、好きなDJをいっぱいフォローして、まとめ系のアカウントもチェックして、ピンと来たものは自分でも深く掘っていくのが僕のやり方ですね。
「事務所から送られてくるスケジュールには楽曲制作の予定は入ってないですから」
楽曲だったりミックスの制作環境についてお聞きしたいんですけど、主に音楽制作はどこでやっているんですか?
基本はここ(※このインタビューはLDH社内のPKCZ®ルームで行われた)か家ですね。この部屋は、僕が使いやすいように機材もレイアウトもある程度自由にさせてもらっていて、自分の作業に集中できる環境を整えてもらっています。内装もなんか和のテイストを取り入れたくて、床もカーペットとかフローリングじゃなくて畳を敷き詰めてもらったりして、めっちゃ気に入っています。
制作は夜型ですか? それとも日中そのための時間をつくってとか?
夜ですね。日中はドラマの撮影とかスケジュールが決まっているので、制作は空いている夜にやることが多いです。DJの仕事が迫ってきていると、とにかく隙間時間に制作なんてこともありますね。やることはめっちゃいっぱいあって、音源とか楽曲づくりは何時間やったからできるというものでもないですしね。トラックメイキングについては、事務所から送られてくるスケジュールにはその制作時間って当然載っていないんですよね。だから隙間を見つけて自分で時間をつくってやっていくしかないんです。
今、DJ活動を加速する理由

今後の活動についてですが、4月28日には1st Album『curious』を発表。ますますDJとしての活動が加速していますが、これからDJ・音楽を通して挑戦していきたいテーマや、描いている未来像があれば聞かせてください。
これからDJとしてイベントに積極的に出ていくつもりですし、去年アジアツアーをやることができたので、今後は北米、ヨーロッパも視野にやっていきたいと思っていますし、さっき言ったように海外レーベルからのリリースをどんどんやっていきたいと思っています。
6月には、EXILEとしての活動をしばらくお休みする発表もありました。心配する声もあったと思いますが、公式にも「GENERATIONS、PKCZ®ならびに個人の活動に専念するため」というリリースが出ています。これは先程からおっしゃっている、パフォーマー、俳優、そしてDJとしてのソロ活動に注力したいという思いも関係しているのでしょうか?
もう、時間が足りないというのが正直なところとしてありますよね(笑)。DJ活動と言ってもイベントやクラブで回すDJの活動と、トラックメーカーとしての制作活動はまた違うものだったりするんです。選曲して、プレイリストつくってというのと、トラックメイクする時間はまったく別の時間をつくってやるものですし、それも自分の中では掛け持ちしている感覚があって、パフォーマー、俳優、DJ、トラックメイカーとやりたいことをやらせてもらっているから幸せでしかないんですけど、使える時間には限りがある中で、これまでがむしゃらにやってきた自分の今の年齢も考えて、これからどうしていくかのスタートラインに立っているんじゃないかと思うところもあります。
(Interview and text by Kazuki Otsuka)
後編に続く→
ALAN SHIRAHAMA/白濱亜嵐
2012年11月、GENERATIONS from EXILE TRIBEのパフォーマーとしてメジャーデビュー。GENERATIONSのリーダーとして、個性豊かなメンバーをまとめる。2014年にEXILE、2020年にはPKCZ®に加入。GENERATIONS/EXILE/PKCZ®を兼任しながら活躍する一方で、俳優としても数々のドラマや映画作品に出演するなど、マルチな才能を発揮している。
2023年12月にはALAN SHIRAHAMA名義でEP『null』をリリース。ダンスミュージックDJとしてのポジションを確立した。
自身のルーツであるフィリピンの観光大使も務めており、『null』リリース時にはアジアツアーを敢行。オランダのレーベル、STMPD RCRDSと契約するなどDJとして世界に挑戦を続ける。近年では楽曲制作も手がけ、さまざまなアーティストへの楽曲提供も行う。
2024年にはULTRA Beach Baliで初の海外フェス出演、12カ月連続シングルリリースも話題に。全楽曲が100万再生超えという快挙を成し遂げた。2025年には1st Digital Album『curious』をリリース。世界各地でツアーを行い、現地の耳の肥えたオーディエンスを沸かせた。6月にはWorld DJ Festival Japan 2025に初参戦。DJとしての活動をさらに加速させる今もっとも目が離せないアーティストの一人だ。